喜多見こけしのブログ

追記・修正多め(ステルス含む)

『ルックバック』を”Look Back”する(1)「的外れな怒り」に注目して:作品は京都アニメーション追悼なのか?

  話題になっている、藤本タツキの『ルックバック』を読みました。

 思ったことはいろいろあります。作品についても、また作品を巡る言説についても。

 論争を呼んでいる作品であり、先に所感や社会論的なことを述べてしまうとそこから後は読んでもらえない可能性もあるので、記事を何回かに分けたうえで、まずは私がこの作品のテーマをどのように捉えているかということを自分なりに整理していきたいと思います。

※8月2日のアプリ配信版『ルックバック』セリフ差し替えより前に書かれた記事です

※後で思いついたことを追記したり、一部を削除したりするかもしれません

 

私のルックバック評の「背景」

 読んだのはある程度話題になってからでした。

 少年ジャンプ+アプリで該当作を読み始める前にTwitterで、最初のコマの"Don't"と最後のコマの" In Anger"について紹介するツイートが流れてきたのを見ています。Oasisの楽曲や2017年のマンチェスターでの爆発テロについては知らなかったのでWikipediaで確認し、「振り返るな、怒りを捨てて未来を見ろ」というようなメッセージがあるのかなと思いました。そうしたポジティビズムは正直あまり好きではないのですが、藤本作品の、バンド・デシネにも似た画面造形や色遣い、余剰を含んだ台詞回し、曖昧な表情といった要素や、ストーリー展開のエグさは好きだったので、なにがしかを期待して読みはじめました(なお、『チェンソーマン』は19話だか21話だかのあたりまでしか読めていませんが、マキマさんが最後どうなるのかということはTLに流れてくる感想やファンアートで薄々察しています。『ファイアパンチ』については全く知りませんが、『ルックバック』にも『チェンソーマン』のように藤本タツキの強烈な個性によるエグい展開があるのだろうなと予想していました)。

 その時点ではまだ、京都アニメーション放火殺人事件と『ルックバック』を結びつけるツイートには接していなかったので、マンチェスターでの爆発事件をベースに、銃乱射事件(『チェンソーマン』の銃の悪魔からの連想です)が出てくるのかなと思っていました。

 

『ルックバック』は追悼・鎮魂を主眼とした作品か?

 音楽や漫画などについて素人で、藤本作品もほとんど知らない私は、Twitterで言われていたような様々な「元ネタ」については頓着せずというか、考察できずに読み進めました(本稿もそうした「元ネタ」方面の”Look Back”はあまりやりません)。そして犯人の「ほらア!! ちげーよ!! 俺のだろ!?」「元々オレのをパクったんだっただろ⁉」というセリフを見て、京都アニメーションの事件を連想し、主要な着想源なんだなと思いました(そのページより前の、ニュース番組の場面でどう思ったのかは覚えていません)。

 そして作品を読み終わり、テーマとタイトルの意味に思いをはせました。「このタイトルにはいろんな読み方ができる」というようなツイートを、作品を読む前と後、どの時点で見かけたかは定かではありませんが、確かに重層的な作品だなと思いました。

 多くの人が『ルックバック』は追悼のための作品だ、鎮魂の詩だというように言っています。そうした側面もあるかもしれませんが、私は『ルックバック』は京都アニメーションでの事件からも着想を得たであろうと推測されるものではあっても(この点については次回記事で)、追悼を主眼とした作品ではないと考えます。

 サバイバーズ・ギルト(Survivors' Guilt)という言葉をご存知でしょうか? 事件や事故、災害で身近な人を亡くした人が、なぜあの人が死んで自分が生き残ったのか、自分が死ぬべきだったのではないか、自分はあの人が死なないために何かができたのではないか、と罪の意識に苛まれることを言います。『ルックバック』は苦しみ(不登校だったり、サバイバーズ・ギルトだったり)のうちにある人が、いかにして前を向くかということ──そのとき変えられない過去だったり創作だったりの存在は絶望にも希望にもなりうるが、変えられない過去や創作の存在が絶望であると短絡的に片付けてしまう前に物事(たとえば、創作に救われた過去であるとか)をしっかり見ろ(逆に、希望に見えたものがよく見れば絶望である可能性もあるにせよ)──ということをテーマにしていると、私は推測します。

 鎮魂という行為自体が生き残った人を慰めるための儀礼であるというような話については今はおきます。私が言いたいのは、物語自体が、おそらくは死者の苦しみよりも生き残った者の苦しみの救済を中心として描いているということです。

→「サバイバーズ・ギルトという言葉で表すのは適切だったのか?」というご指摘に関する追記(脚注)*1

的外れな怒りについて

 作品全体を通じての重要な要素としてあり、最後の"In Anger"で明文化される怒りは、ただの怒りではなく、理不尽な怒りです。誤った仕方で発生し、こじれていく的外れな怒りです。*2

 

①通り魔の、「絵画から罵倒されている」「パクられた」という被害妄想による怒り

 

②藤野の、「京本を漫画の道に誘い、死という間違った運命に導いてしまった」過去の自分自身に対する「私が京本を殺したのだ」という怒り、悲しみ(サバイバーズギルトと、論理飛躍による自責)

 

③藤野の、京本に対する嫉妬=潜在的な憎悪=怒り。怒りをもって京本の背中を見つめること(藤野は京本が自分の背中を追っているとうそぶいていたが、京本の才能をうらやみ、京本が藤野の元を去って自立することを押さえつけようとさえした)

 

(なおそうした中で、京本の怒りは読み取れません。怒りをもっていたかどうかすら定かではありません。死ぬ瞬間の怨嗟やモノローグがあるわけでもない。藤野が家に卒業証書を渡しに来たとき、「ひきこもり世界選手権が開催され、出るな出てこいと外野からいろいろいわれているうちに部屋の中で朽ちて骨となってしまう」という見ようによっては稚拙で酷い(でも時と場合によっては勢いにちょっと笑ってしまうような)四コマ漫画を誤って部屋に滑り込ませてしまった藤野を(学級新聞の連載で知っていた)京本は「藤野先生」と呼び、感極まった様子で半纏の背中へのサインすら求めます。この時点で少なくとも表面上は怒りがないように見えますし、後に更なる技術向上を目指す京本の自立をあからさまに否定し才能を搾取しようとする藤野に対してすら、目立った怒りを見せることはありません。

 そして死んだ後も、殺人犯や藤野を呪い殺そうと化けて出てくるわけではないし(むしろif世界の藤野が京本からなんだかよくわからない幽霊扱いされている)、藤野も京本の怒りに思いをはせることはありません。

 これを被害者の苦しみ・怒りの無視や不可視化と捉えるか、死者の苦しみ・怒りを代弁しない誠実さと捉えるかは両論があるかと思いますが、私は現時点では後者ととります。

 私が見落としているだけで、あるいは描かれなかっただけで、京本も的外れな怒りに支配されたときがあったのかもしれませんが。)

 

 的外れな怒りの分析としては④もあるのですが、これは次回の記事に回します。

 

 さて、『ルックバック』では外界との接触を拒み閉ざされたドアの下から滑り込む紙片(四コマ漫画やその切れ端)を介して超時空的なメッセージの交換がなされ、藤野が持つ的外れな怒り(絶望)の、目の前にあって見えていなかったものの直視(希望)への組み換えが起こっていきます。

 ドアで隔てられたif世界(と仮にそう呼びます。それは藤野が見た白昼夢だったのかもしれないし、藤野の願望=祈り=思考の道筋そのものの漫画的な表現かもしれませんね)では漫画の道を諦めた藤野が身につけた空手で京本の命を救い、京本が描いた「京本を凶刃から颯爽と助けた藤野の背中に斧が刺さっている」四コマ漫画が風に飛ばされ、作中の現実世界(と仮にそう呼びます)で廊下に閉じこもって自責している漫画家・藤野へと滑っていきます。その四コマ漫画の「背中を見て」というメッセージを見て、藤野は部屋の中のたくさんの漫画、そして壁に掛けられた、自身のサインが描かれた京本の半纏の背中を見ます。それは京本にとっての憧れ(=希望)であり続けた藤野自身の姿であり、藤野にとっても京本にとっても楽しかった、漫画を描く時間を共有したという事実の象徴です。そこではもはや「京本を漫画の道に引き入れた過去の自分が事件を招いたのだと論理飛躍して己を責める視線」や「嫉妬=潜在的な怒りをもって京本の背中をにらみつける視線」は薄れ、藤野は自らが漫画を描くということが自他にとっての絶望ではなく希望なのだと自覚して前を向く=過去を見るようになるのです。藤野が漫画家であることを否定することは、究極的には京本が生きていたこと、楽しかった時間すらも否定することです。

 的外れな怒り(②と③)の解毒は、"Look Back In Anger"(自らの過去や他人の背中に対して怒りを向けること)が"Look Back"(自他の背中=過去を見ること)によって"Don't Look Back In Anger"(怒りをもって自分の過去を見るな/怒りをもって背中を見るな)と変化していくプロセスです。

 そこでいう背中は、京本の背中であるだけではなく、京本が追いかけていた藤野の背中でもあります。自分の背中を見ることは実際、難しいです。自分の背中を見るためには鏡が複数枚必要になるわけですが、それはきっと、具体的なレベルでは相方であったり創作物(『シャークキック』)だったりするのでしょう。象徴としては半纏になっている。

 

(藤野は自身が京本を漫画の道に引きずり込んだことで事件が起きたという想念に囚われていますが、「漫画との関わりが死を招いた、だから漫画との関わりを全否定しなきゃ」という想いが的外れな飛躍であるだけでなく、そもそも京本は藤野と出会う前から漫画を描く人間であり、藤野が京本を漫画の世界に引き入れたわけでもないし、藤野との出会いがなかろうが京本は漫画を描いていただろうという意味でも誤っている、ということを、すのぶ @snobocracy さんのツイート https://twitter.com/snobocracy/status/1416928386434277376?s=19 をはじめとしたいくつかのツイートから思いました。本稿はネット上のいろいろな感想・考察に助けられてます)

 

背中に刺さった斧を見ろ

 おそらく、「怒りを込めて振り返るな」といってもそれは、いろんな痛みを、そして怒りをすっからかんに忘れてしまうということではありません。藤野の背中と京本の背中が重なるとき、京本の半纏に書かれた「藤野歩」の名前は藤野の背中に刺さった斧=痛み=怒りと重なり合うものでもあります(斧の形が「碇」に似ているのは偶然でしょうか?)。 凶器に関する追記*3

 これは想像ですが、藤野は藤野の京本に対するコンプレックス=潜在的な怒りの存在を心のどこかで呪っていたのではないでしょうか(怒りそのものに対する怒り)。そして京本の死に際し、サバイバーズギルトもあって、後悔が自責の念として噴出する。

 コンプレックスは、筆を折るきっかけにもなれば、紙一重で漫画を描く原動力にもなります(サインを求められたからといって京本へのコンプレックスが簡単に消えたわけではないでしょう。でなければ京本の自立はすんなりと受け入れられたはずです)。絵描きとして努力することから逃げることとなった根底にある嫉妬心=的外れな怒りは、藤野自身によってよりましな(自己を叱咤して修練へと駆り立てる、的外れではない)怒りへと常にすでに組み替えられていた側面もあるわけです。京本とタッグを組んで以降の藤野が漫画を描くということの根底には(悪い意味だけでなくいい意味でも。後者の認識は殺人事件に際し一度は抑圧されてしまう)怒りがずっとあり、だからこそ藤野は殺人事件の起点に自らを置くという論理飛躍をしたのだとしたら? 京本が「背中を見て」と書くのはなぜか。藤野が生きながらにして死んでいるから、斧が背中に刺さっていても痛みの意味に気づかない(ふりをしている)ということではないでしょうか。その内なる怒りこそがかつての楽しかった時間を形作り、漫画作品を生み出してきたという事実の視認によってしか、藤野は前を向くことができません。そしてその転回は成功しました。

 的外れな怒りと訣別しつつ、内なる怒り(そして漫画を描くということ)を自分の重荷として引き受けることで藤野は漫画家として立ち直ります。それは決して楽な道ではなく、あくまで痛みをともなうものです。藤野が自らの漫画家としての人生を取り戻すための希望は、京本を救う空想から京本がいない現実に引き戻す/立ち戻る痛みでもあるということなのではないでしょうか(モグラが日の光に当たると死ぬというのは俗説らしいですが)。そして相方の理不尽な死がなかったとしても、創作物を生み出す作業は(楽しさもあるが)ダルくて辛く、苛立ちを抱え続けることです。その自覚もまた、斧の刺さった自らの姿を見るということなのかもしれません。

 物語の最後に藤野はサイン入り半纏を着ることなく、机に向かいます。京本の生きた証であり、藤野の生きた証でもある半纏は、着る(=また背中が見えなくなる)ものとしてではなく、そこにずっとあって見られるものとして残るのです。これは二人が生きていようと死んでいようとお互いの背中を見合って前に進んでいくことを表しているのかもしれません。またいつか藤野が挫折したとき、部屋に掲げられた半纏が藤野を立ち直らせるのかなと想像してしまいます。前を向いて進むということは過去を切り捨てることではなく直視することであり、部屋から出ることと部屋に戻る(過去を振り返る)ことは同じなのです。

 

大地を蹴って:死者たちの舞踏と足枷

 『ルックバック』は喪失と再起、もっと言ってしまえば死と再生の物語です。藤野が描いて京本も大切に保管していた生まれ変わりの四コマ漫画のように、二人とも様々なレベルにおいて死者であったり生者であったりします。大森靖子の『流星ヘブン』ではないですが、人間は生きていく中で──互いに背中を追いつ追われつしながら──仮想的な死と再生を繰り返していく存在です。

 藤野は京本の出現で絵描きとしての挫折を味わい(一度は悔しさをバネに奮起するものの、周囲の無理解もあって)モチベーションを失い、京本からの認知を受けたことで漫画家を目指す存在として──セミやミノムシが羽化するように──生まれ変わります。また藤野は京本の死によって休載に至りますが、京本が藤野の自分勝手な願いを「蹴って」美大に行った段階では藤野は漫画を辞めませんでした。その結果生まれた作品が『シャークキック』です。if世界で京本と会わずに卒業証書を置いて帰った藤野もまた、幽霊である、つまりすでに死んでいる存在です。しかしその藤野は京本を助けた時点で京本なしで漫画を再び描き始めていました。もはや幽霊ではない(足がある)、だから周囲に流されて始めた空手のキック技で誰かを助けることができるのです。漫画を描いたから助けられなかったんじゃない。漫画を描くことこそが、藤野のなりたかった、京本を助けられる自分と不可分なのです。現実世界で京本が、廊下の床を蹴って走り出す=藤野の漫画を肯定することで漫画を描く藤野を救い出したように。

 京本が死によってその歩みを止める(足を奪われる)ことで、藤野もまた休載するまでに追い込まれます。藤野は京本が美大に行った後もバリバリ漫画を描き続けましたが、それは京本が自分の足で進み続けていたからです。「漫画の賞に応募するのだ」と見栄を張ることによって確実なものとなった足枷で進行していた二人三脚でしたが、京本の足が奪われることは藤野からも足枷ごと足を奪う呪いだったのでしょう。京本が美大に行き、商業誌で一人で連載を開始してからも、藤野は藤野キョウという合作用のペンネームを使い続けたわけです。それは半纏における二人の重なり合いと同じものではありつつも、藤野を京本への依存状態に留めてしまうものでもあり、足枷が消えることで藤野は自らの足で踏み出せず過去に囚われるようになるのです。京本という存在の忘却に向かうのではなく、二人でいることを回復するために、二人三脚の片割れとしては死んでしまった自分自身(の「歩み」)を取り戻すために、「藤野歩」とサインされた半纏の背中をもう一度確認する必要があったのです。二人で一つという状態を否定することで、二人がもう一度結ばれる(というよりは、そこにある紐帯が生きたものになる)という逆説がそこにはあります。

(if世界で京本がアシスタントになる、ということが、藤野にアシ=足がつく、幽霊ではなくなるという語呂合わせなのかは分かりませんが、京本と対面した段階ですでに漫画を再開しているのでたぶん違うのでしょうか。あ、カラテキックで足が折れちゃったからある意味足が必要なのか)

 

 以上が私なりの『ルックバック』の解釈です。『ルックバック』は当初私が予想していたような、単に起こってしまった出来事(悲惨な事件)について「加害者に対する怒りを捨てろ」とポジティブ志向のお説教をする類の作品ではないと思いました。私は『ルックバック』を読み終えたとき、主人公が怒りに我を忘れてとんでもないことをしでかすわけでもないのに(加害者への凄惨な復讐の要素はありません。空手でぶっ飛ばす場面はあっさりしたものですし、京本の四コマ漫画で戯画化されてすらいます)「怒りを含んだまなざしで振り返るな」とはどういうメッセージだ? と思いましたが(作品を読む前、もしかすると手垢にまみれた「正義の暴走」類型が出てくるのか? いやまさかな…と思っていたので拍子抜けした)、鎮魂ではなくサバイバーズギルトの物語だという解釈が浮かんだことで、自分なりにテーマや各要素の意味付けができたと思っています。私的にはこれでいい線行ってるんじゃないかなと自負していますが、もちろん、私の解釈が絶対ということはないでしょう。見かけ上整合的な理解をするために私が切り捨ててしまっている要素があるというご指摘などがあればぜひ感想、ご意見をいただけるようお願いします。

 

蛇足①:『ルックバック』における永劫回帰ルサンチマン

 最後に蛇足になるかもしれませんが、私の『ルックバック』解釈には多分にニーチェ哲学の影響があります(大森靖子への言及も含めて)。これは全く私の個人的なバックグラウンドによるもので、『ルックバック』にはニーチェのニの字も出てきませんし、藤本タツキニーチェから何かアイデアを得ているというような話を聴いたことがあるわけでもないのですが、何かの参考になるならということで『ツァラトゥストラはこう語った』を読むことを皆さんにおすすめしておきます。私が本稿で詳述した「的外れな怒り/的外れなものでもそうでないものでもありうる怒り」はルサンチマンとその根源にある力への意志と重なり(力への意志ルサンチマンと対立する概念ではなく、力への意志の悪用された形がルサンチマンです)、過去に対する解釈変更と「前を向くこと=過去を直視すること」は永劫回帰の認識、オタク性の承認は自己超克して大人から子供になるというイメージに重なるところがあるかと思います(ただ、俗な理解である「末人のルサンチマン=暴力、超人の反ルサンチマン=非暴力=創作による昇華」との図式は、誤りであると私は思います。ニーチェは暴力と蹂躙、実力行使こそを肯定する思想家だからです。といってもニーチェが創作活動そのものを否定したわけでもありません。ニーチェの作品には詩もありますし、『ツァラトゥストラ』自体が一種の叙事詩です。ニーチェ交響曲などの作曲もしているので、興味があれば調べてみてください)。過去に対する解釈を変えて怒りを手放すことは安易なポジティビズムの礼賛に繋がるので取り扱い注意ではあるのですけれど。

 ツァラトゥストラは弟子に、師である自分を打ち倒してゆくことを要求しました。不登校だった京本を軟弱者と決めつけた藤野が、京本の自立と成長を恐れ拒んだのは、強者でありたいと思いつつもツァラトゥストラになりきれなかったワナビーとしての必然であり、そこからの自己超克が求められていたのではないでしょうか。

 

蛇足②アキレスは亀に追いつけるか:追いつかずに追い越すこと

 アキレスと亀の問題も相対性理論も全く素人なのであくまでイメージとしてですが、アキレスが亀に追いつく(アキレスが亀の背中を見られなくなる)ことは時間の問題です。光と同じ速度でいると光を見失ってしまうことにも通じます。癒しということについてよく「時が解決する」という言い方がなされますが、ただ前に進むこと、直線的に進む時間の中に救済はないというか、円環的な時間の中でこそ救われるものもあるのではないかということを私は『ルックバック』から読み取りました(過去を忘れ前に進む物語として『ルックバック』を非難する論への異論)。

*1:サバイバーズ・ギルトという語は本来、それを抱える本人も被害に遭っているという意味の生き残りであるがゆえに生じる罪悪感を指すものであり、悲惨な事件に自身も巻き込まれたわけではない人間の「身近な人を亡くした痛みからくる後悔」を単に「生者の世界に残された」という意味で「生き残った」からサバイバーズ・ギルトと呼ぶというのは「被害を受けつつ生き残った人との重要な差異を無化してしまう点で問題なのではないか」(枠組みとしてはグリーフgriefのような概念の方がよいのではないか)、「事件を見聞きしただけの人が安全・特権的立場から何か罪悪感を感じる・(気軽に語る)、ということの問題性が私は気になる」ということをご指摘いただきました。

 確かに作中の藤野は事件に直接巻き込まれておらず、本来ならサバイバーではありません。しかし、第一に本作が生き残ってしまったことの罪悪感、自責感情を巡っての物語であり、グリーフ概念にも罪悪感・自責感情は含まれるとは思いますが、やはりその中心となるニュアンスは離別における深い悲しみ、悲嘆であり、この記事で扱いたいものを表現する言葉として、サバイバーズ・ギルトという言葉をあえて選びました。「被害を受けつつ生き残ってしまった人との重要な差異」を表現できていないことは私の未熟さです。

 第二に、これは元々本稿で取り扱う予定だったのが次回記事に回すこととなったテーマなのですが、まさにご指摘の「事件を見聞きしただけの人が安全・特権的立場から何か罪悪感を感じる・(気軽に語る)」という言葉で言い表されているような、サバイバーではない人々がメディアでニュースを知り、事件について語り合うことで生じる疑似的なサバイバーズ・ギルト空間がこの世界ではいつからか存在していて、そのことが大きな問題であると認識しています。

*2:正当か理不尽か、的外れかどうかは後付けの論理にすぎないというご指摘をいただきました。私自身そう思いつつも、分かりやすさのためにあえて使用しています。

*3:作中現実のニュースでは「斧のようなもの/切りつける」、襲撃場面では斧よりはツルハシに近いがツルハシでもない先端の鋭利な工具、京本の四コマ漫画では「斬ってやる/背中に刺さる」見た目は完全にツルハシのもの(死神の鎌が両頭になっている?)と、凶器が何であるのかは曖昧です。

 そもそも犯人は凶器をどこで手に入れたのか。if世界に突然出てくる俯瞰目線的なナレーションでは実習棟内で拾ったとされ、助けた藤野は「武器を持った男が入っていくのを見かけた」(ランニングは校外?)と、語り手が信頼できないものになっています。if世界を藤野の願望やニュースの知識が混ざりあったものとして見るならそのズレは説明できますが、凶器の形状がかなり具体的なんですよね。分かりやすい斧ではない。ニュース速報では不十分な情報から斧のようなものとしてしまったが実際には違っており、後に訂正されて藤野がそれを知っていた…という想像もできますが、そうかどうかは描かれていない。if世界が藤野の願望とかそういうものの表現だとしたら、工具の具体性とか作中現実の新聞記事になかった「パクったんだっただろ!?」というセリフは不可解なものと私には映ります。

 また、怒り=碇説について、anchorとangerの類似性を指摘するご意見もいただきました。ミ @38kikko6 さんの「ルックバック何回も読んでるんだけど、don't look back in angerと振り返ると半纏のハンガーがある(look back on a hanger )というクソダジャレに気づいてしまった」というツイートも踏まえると、二人が時間を費やしたものがアニメでもゲームでもなく「マンガ」であることも語呂合わせの一種なのかもしれませんね。