喜多見こけしのブログ

追記・修正多め(ステルス含む)

本多議員に批判的な私が、本多議員の反論を読んで、立憲民主党に要望すること #本多平直議員への処分撤回とWT音声記録の公開を求めます

これまでの立場

 立憲民主党の性犯罪刑法改正WTにおいて本多平直議員が「50代の私と14歳の子と性交したら同意があった場合でも捕まることになる。それはおかしい」と発言したとされる問題において、私はこれまで、

 ・著しい体格差や年齢差がもたらす可能性のある権力関係を考慮して、性交同意年齢は引き上げるべきである

 ・「その立法議論の中で願望を言った訳でも性犯罪を起こした訳でもなく」という擁護意見もあるが、一般論として「14歳には自己決定能力があるのではないか」と問題提起するのと、「50歳の自分が14歳とセックスしたら同意の上でも捕まるのはおかしい」と述べるのとではニュアンスが違うし、後者は遠回しな願望の発露とみなされても仕方ない(願望、欲望を表明してはいけないのかということはまた別。法規制されるべきではないが、倫理的な掣肘を受けることに一定の理はあるだろう。しかし、党内WTという「自由な議論」の場においてもそうであるべきかどうかは分からない)

 ・前提を洗いざらい問い直していく種類の議論のために質的あるいは倫理的規制の少ない、自由な発言が許される場は(それが議論を深める結果になるかどうかは怪しいものではあるが)必要だし、そのためには発言内容によって参加者を罰しないことも必要ではあるが、法に違反しないものであっても議論の場を毀損する言動というものはあるし(今回の本多議員の発言がそれにあたるかは別)、ゆえに組織にはその理念にそぐわないと判断された人間を排除する権利があるし、「自由な議論の場」と別な場面で全く同じ場面があったときに処分がなされるなら、「自由な議論の場」での発言に対する処分と実質的には同じことではないか

 などと考え、その上で、「立憲民主党には本多議員を離党させる権利があるし、小池百合子にはリベラル派を排除する権利があるし、自民党稲田朋美に冷や飯を食わせる権利がある。そして議員や党員や有権者はその決定に抗議する権利がある」として、立憲民主党による処分をTwitterで擁護してきました。手続き論に多少の瑕疵があったとしても、それは支持者も含めた党内で解決すべきことだと思っていました。

 しかしそれは、「別に立憲民主党の支持者じゃないから強く批判しなくてもいいや」という甘えでした。

 

立憲民主党自由民主党を批判する資格はない

 本多議員は、WTでの発言は「50代の私と14歳の子が恋愛したうえでの同意があった場合に罰せられるのはおかしい」だったものが、「恋愛したうえで」が削られて「性交」が付け加えられてWT中間報告案により広められ、後のハラスメント防止対策委員会の資料においても同様であったと主張しています。

 もちろん、(性交同意年齢概念を恋愛同意年齢に拡張しようとの議論がなされたというような前提でもない限り)現状で性行為を抜きにした恋愛に年齢差によって同意可能性を認めないということはないので、本多議員のいう「同意があった場合」とは恋愛のうち性交における同意を実質的に意味するものではあります。

追記:「真摯な恋愛」に基づく性交なら未成年と成年の性交でも処罰の例外とする最高裁判例があるとのことでした

 しかし、たとえ実質的な意味内容が同じに思えるものであっても、実際に言っていないことを言ったことにするのは、議論を通じて運営され行動していく全ての組織や運動において、また市民的な議論において許してはならないことです。不当な手段によって得られた果実は、どんなによいものであっても打ち捨てられるべきなのです。

 本多議員の主張する「WT中間報告案の作成者/ハラスメント防止対策委員会による発言改変」が事実であれば、立憲民主党はその運営手続きに重大な瑕疵を抱えていることになるし、たとえば与党・自由民主党の公文書隠蔽・改竄、議事録不正廃棄を批判する資格も全くないと主張します。

 立憲民主党単体では政権交代なんて無理でしょうが、他党との連立などの形で権力をとる可能性はわずかながらあります。そうなった場合でも、思想信条の方向性が違うだけで自民党と同レベルの政治しかできないんだろうな、と改めて思いました。ですが私は立憲民主党が、自民党よりは批判に対して開かれており、議論における倫理を守る意志があるという可能性にわずかながら賭けてみることにしました。

 以上から、私は立憲民主党に対して、

 ①本多議員に対する処分をひとまず撤回する

 ②有権者が本件について判断できるよう、WTの該当発言の音声記録を公開する

 この二点を要求します。

 

 私は、議論に際しては一字一句の扱いを厳密にする必要があるとする立場です。全く同じ文章を目の前にしてすら人間はそれぞれの見方で解釈し対立します。そのうえ参照するべき表現が原文から変えられてしまったら議論の前提からしてより一層危ういものになります。「原文を読んでから批判することが大事である」のも確かですが、それ以上に「原文が保全され、できれば公開されることが大事である」という立場です。私は行政・司法・立法の諸過程における議事録の破棄禁止や、国立国会図書館による運営を前提とした放送アーカイブ構想に強く賛同しています(追記:議事録の破棄禁止と書きましたが、全ての資料を残すことは不可能であり、資料管理学においては評価選別も重要にはなります)。また人が足りずに作業ができていませんが、炎上事案について時系列や論点を網羅的に記述し蓄積する表現論争事例アーカイブ(表現・思想・欲望論争事例アーカイブ)というものも民間でやるべきだと思っています。

 今回、仮に改変があったとしてですが、立憲民主党で本多議員の発言改変に携わった人は、「言ってることは同じなんだから改変は倫理的な問題じゃない」「ニュアンスを大事にするからこそ、分かりやすく変えてあげたのだ」という考えなのだと推測しますが、もしそうだとすればそれは間違っています。「言っていないことを言ったことにされる」「言ったことを言っていないことにされる」ということに対して危機感を持てないのであれば、政治に関わるべきではない、とすら思います。

 

表現の自由戦士」に立憲民主党を批判する資格はない

 公務員ツイッタラーの青識亜論氏をはじめとして、「表現の自由戦士」と揶揄される人々が今回の一件に関して立憲民主党を批判していますが、私は、立憲民主党自由民主党を批判する資格を持たないように、彼らもまた、自由民主党立憲民主党も批判する資格を持たないと思います。

 なぜなら彼らは、フェミニストに対するなりすましアカウントの存在を、

なりすましであるかどうかはどうでもいいことです

普段のフェミニストの馬鹿っぷりを見ていると、『ああ、連中ならやりかねないな…』と思ってしまう。

こういったなりすましの釣り垢を問題だと思うなら、まずは日頃から自分達の立ち振舞いを見直すべきと思いますね。

釣りアカウントについて語るフェミ、卑怯だなと思う。なぜかって、釣りアカウントの意見に関しては言及しないから。「あれはアンチによるフェミニストのなりすまし!」とは言っても、発言内容には絶対に触れない。結局は「誰が言ったか」しか見てない。大事なのは「何を言ったか」でしょ。違う?

フェミの釣りみたいなの最近増えてるけど、今までの言動のタチの悪さ見てると、他のジャンルだと明らかに釣りに見えるような内容でも実際にあり得そうだから釣りだと判断つかない人がいるのしょうがないし、自分たちで撒いた種なのでは

などとしてたびたび擁護しているからです。「誰が何を言ったのか」は不可分一体のものでなくてはなりません。「誰」の部分が疎かにされてよいのであれば、本多議員が「何を言ったか」に関する誤った事実が本多議員に帰せられても仕方のないことです。議論すべきはその内容の可否なのですから。それとも立憲民主党が「本多議員がそのようなことを言ったと仮定して議論しよう」と言い出せば許されるのでしょうか?

 そして、なりすましや釣り情報を容認する背景には「あいつらならやりかねない」「仮に誤情報だったとしても/今回は誤情報だったけれど、警戒するに越したことはない。注意喚起は大切だ」という意識がありますが、それは反原発運動における放射能デマやQAnon運動における情報の広がり方、あるいはトランスライツ規制派におけるTwitterユーザーの振る舞いとも軌を一にするものです。

 フェミニストという茫漠とした属性への風評と本多議員のような特定個人におけるそれは被害の及ぶ度合いが比べ物にならない、との反論が返ってきそうですが、ことは誰が具体的な風評を受けるかの問題ではなく、民主主義的な、参加する一人ひとりが誠実であるべき議論空間の毀損という問題なのです。この議論空間は、この国が民主主義国家である以上は、公党内であれインターネット論壇であれ、普遍的に要請されるものです。

 そしてもちろん! 議論手続きの怪しさを知ってなお本多議員の離党処分に賛成するフェミニストは、自由民主党を批判する資格も、表現の自由戦士を批判する資格もないと思います。

 

※ただし、議論において誰かの言ったことを自分なりに解釈してパラフレーズしたり要約したり、「その議論からはこうした帰結が生じるのではないか」と主張することを、全否定するわけではない。Twitterで『ルックバック』に関する作品論を行う上でも「描いてあることを字面だけ見ろとか明示されていないことを読み取るなというふうに、解釈という行為を否定し(妄想や狂気という枠に押し込めてしまえば)あらゆる考察も評論も成り立たなくなる」という趣旨のことを主張しているように、私は議論においては人間が人間である限り、解釈を離れることはできないとする立場でもある(拙稿「『ルックバック』を"Look Back"する」の第二回はこの観点がメインとなる予定だ)。ただ、全否定はしないまでも、そうした行為はしばしば曲解や藁人形論法に繋がるので、原文からなるべく離れるべきではないし、なりすましが疑われるアカウントは批判的に取り扱う必要があるということだ。「表現の自由戦士」が好む対話系リアルイベント(ちょうどこの記事を書いた日には第三回これフェミが開催されていたらしい)はなりすましを排除した言論空間としてやっているのだとの反論があるかもしれないが、誰が言ったかを軽視するならなりすましを嫌うような層はイベントに登壇もしないし金を払わないのが当然のなりゆきだろう。誰でもいいならわざわざ登壇者として生身の人間を指定する必要はなく、椅子の上に置いた人形に自分の考えた愚かな(あるいは最強の)フェミニストの言葉でも語らせて自分で批判していればよいのだ。