喜多見こけしのブログ

追記・修正多め(ステルス含む)

本多議員に批判的な私が、本多議員の反論を読んで、立憲民主党に要望すること #本多平直議員への処分撤回とWT音声記録の公開を求めます

これまでの立場

 立憲民主党の性犯罪刑法改正WTにおいて本多平直議員が「50代の私と14歳の子と性交したら同意があった場合でも捕まることになる。それはおかしい」と発言したとされる問題において、私はこれまで、

 ・著しい体格差や年齢差がもたらす可能性のある権力関係を考慮して、性交同意年齢は引き上げるべきである

 ・「その立法議論の中で願望を言った訳でも性犯罪を起こした訳でもなく」という擁護意見もあるが、一般論として「14歳には自己決定能力があるのではないか」と問題提起するのと、「50歳の自分が14歳とセックスしたら同意の上でも捕まるのはおかしい」と述べるのとではニュアンスが違うし、後者は遠回しな願望の発露とみなされても仕方ない(願望、欲望を表明してはいけないのかということはまた別。法規制されるべきではないが、倫理的な掣肘を受けることに一定の理はあるだろう。しかし、党内WTという「自由な議論」の場においてもそうであるべきかどうかは分からない)

 ・前提を洗いざらい問い直していく種類の議論のために質的あるいは倫理的規制の少ない、自由な発言が許される場は(それが議論を深める結果になるかどうかは怪しいものではあるが)必要だし、そのためには発言内容によって参加者を罰しないことも必要ではあるが、法に違反しないものであっても議論の場を毀損する言動というものはあるし(今回の本多議員の発言がそれにあたるかは別)、ゆえに組織にはその理念にそぐわないと判断された人間を排除する権利があるし、「自由な議論の場」と別な場面で全く同じ場面があったときに処分がなされるなら、「自由な議論の場」での発言に対する処分と実質的には同じことではないか

 などと考え、その上で、「立憲民主党には本多議員を離党させる権利があるし、小池百合子にはリベラル派を排除する権利があるし、自民党稲田朋美に冷や飯を食わせる権利がある。そして議員や党員や有権者はその決定に抗議する権利がある」として、立憲民主党による処分をTwitterで擁護してきました。手続き論に多少の瑕疵があったとしても、それは支持者も含めた党内で解決すべきことだと思っていました。

 しかしそれは、「別に立憲民主党の支持者じゃないから強く批判しなくてもいいや」という甘えでした。

 

立憲民主党自由民主党を批判する資格はない

 本多議員は、WTでの発言は「50代の私と14歳の子が恋愛したうえでの同意があった場合に罰せられるのはおかしい」だったものが、「恋愛したうえで」が削られて「性交」が付け加えられてWT中間報告案により広められ、後のハラスメント防止対策委員会の資料においても同様であったと主張しています。

 もちろん、(性交同意年齢概念を恋愛同意年齢に拡張しようとの議論がなされたというような前提でもない限り)現状で性行為を抜きにした恋愛に年齢差によって同意可能性を認めないということはないので、本多議員のいう「同意があった場合」とは恋愛のうち性交における同意を実質的に意味するものではあります。

追記:「真摯な恋愛」に基づく性交なら未成年と成年の性交でも処罰の例外とする最高裁判例があるとのことでした

 しかし、たとえ実質的な意味内容が同じに思えるものであっても、実際に言っていないことを言ったことにするのは、議論を通じて運営され行動していく全ての組織や運動において、また市民的な議論において許してはならないことです。不当な手段によって得られた果実は、どんなによいものであっても打ち捨てられるべきなのです。

 本多議員の主張する「WT中間報告案の作成者/ハラスメント防止対策委員会による発言改変」が事実であれば、立憲民主党はその運営手続きに重大な瑕疵を抱えていることになるし、たとえば与党・自由民主党の公文書隠蔽・改竄、議事録不正廃棄を批判する資格も全くないと主張します。

 立憲民主党単体では政権交代なんて無理でしょうが、他党との連立などの形で権力をとる可能性はわずかながらあります。そうなった場合でも、思想信条の方向性が違うだけで自民党と同レベルの政治しかできないんだろうな、と改めて思いました。ですが私は立憲民主党が、自民党よりは批判に対して開かれており、議論における倫理を守る意志があるという可能性にわずかながら賭けてみることにしました。

 以上から、私は立憲民主党に対して、

 ①本多議員に対する処分をひとまず撤回する

 ②有権者が本件について判断できるよう、WTの該当発言の音声記録を公開する

 この二点を要求します。

 

 私は、議論に際しては一字一句の扱いを厳密にする必要があるとする立場です。全く同じ文章を目の前にしてすら人間はそれぞれの見方で解釈し対立します。そのうえ参照するべき表現が原文から変えられてしまったら議論の前提からしてより一層危ういものになります。「原文を読んでから批判することが大事である」のも確かですが、それ以上に「原文が保全され、できれば公開されることが大事である」という立場です。私は行政・司法・立法の諸過程における議事録の破棄禁止や、国立国会図書館による運営を前提とした放送アーカイブ構想に強く賛同しています(追記:議事録の破棄禁止と書きましたが、全ての資料を残すことは不可能であり、資料管理学においては評価選別も重要にはなります)。また人が足りずに作業ができていませんが、炎上事案について時系列や論点を網羅的に記述し蓄積する表現論争事例アーカイブ(表現・思想・欲望論争事例アーカイブ)というものも民間でやるべきだと思っています。

 今回、仮に改変があったとしてですが、立憲民主党で本多議員の発言改変に携わった人は、「言ってることは同じなんだから改変は倫理的な問題じゃない」「ニュアンスを大事にするからこそ、分かりやすく変えてあげたのだ」という考えなのだと推測しますが、もしそうだとすればそれは間違っています。「言っていないことを言ったことにされる」「言ったことを言っていないことにされる」ということに対して危機感を持てないのであれば、政治に関わるべきではない、とすら思います。

 

表現の自由戦士」に立憲民主党を批判する資格はない

 公務員ツイッタラーの青識亜論氏をはじめとして、「表現の自由戦士」と揶揄される人々が今回の一件に関して立憲民主党を批判していますが、私は、立憲民主党自由民主党を批判する資格を持たないように、彼らもまた、自由民主党立憲民主党も批判する資格を持たないと思います。

 なぜなら彼らは、フェミニストに対するなりすましアカウントの存在を、

なりすましであるかどうかはどうでもいいことです

普段のフェミニストの馬鹿っぷりを見ていると、『ああ、連中ならやりかねないな…』と思ってしまう。

こういったなりすましの釣り垢を問題だと思うなら、まずは日頃から自分達の立ち振舞いを見直すべきと思いますね。

釣りアカウントについて語るフェミ、卑怯だなと思う。なぜかって、釣りアカウントの意見に関しては言及しないから。「あれはアンチによるフェミニストのなりすまし!」とは言っても、発言内容には絶対に触れない。結局は「誰が言ったか」しか見てない。大事なのは「何を言ったか」でしょ。違う?

フェミの釣りみたいなの最近増えてるけど、今までの言動のタチの悪さ見てると、他のジャンルだと明らかに釣りに見えるような内容でも実際にあり得そうだから釣りだと判断つかない人がいるのしょうがないし、自分たちで撒いた種なのでは

などとしてたびたび擁護しているからです。「誰が何を言ったのか」は不可分一体のものでなくてはなりません。「誰」の部分が疎かにされてよいのであれば、本多議員が「何を言ったか」に関する誤った事実が本多議員に帰せられても仕方のないことです。議論すべきはその内容の可否なのですから。それとも立憲民主党が「本多議員がそのようなことを言ったと仮定して議論しよう」と言い出せば許されるのでしょうか?

 そして、なりすましや釣り情報を容認する背景には「あいつらならやりかねない」「仮に誤情報だったとしても/今回は誤情報だったけれど、警戒するに越したことはない。注意喚起は大切だ」という意識がありますが、それは反原発運動における放射能デマやQAnon運動における情報の広がり方、あるいはトランスライツ規制派におけるTwitterユーザーの振る舞いとも軌を一にするものです。

 フェミニストという茫漠とした属性への風評と本多議員のような特定個人におけるそれは被害の及ぶ度合いが比べ物にならない、との反論が返ってきそうですが、ことは誰が具体的な風評を受けるかの問題ではなく、民主主義的な、参加する一人ひとりが誠実であるべき議論空間の毀損という問題なのです。この議論空間は、この国が民主主義国家である以上は、公党内であれインターネット論壇であれ、普遍的に要請されるものです。

 そしてもちろん! 議論手続きの怪しさを知ってなお本多議員の離党処分に賛成するフェミニストは、自由民主党を批判する資格も、表現の自由戦士を批判する資格もないと思います。

 

※ただし、議論において誰かの言ったことを自分なりに解釈してパラフレーズしたり要約したり、「その議論からはこうした帰結が生じるのではないか」と主張することを、全否定するわけではない。Twitterで『ルックバック』に関する作品論を行う上でも「描いてあることを字面だけ見ろとか明示されていないことを読み取るなというふうに、解釈という行為を否定し(妄想や狂気という枠に押し込めてしまえば)あらゆる考察も評論も成り立たなくなる」という趣旨のことを主張しているように、私は議論においては人間が人間である限り、解釈を離れることはできないとする立場でもある(拙稿「『ルックバック』を"Look Back"する」の第二回はこの観点がメインとなる予定だ)。ただ、全否定はしないまでも、そうした行為はしばしば曲解や藁人形論法に繋がるので、原文からなるべく離れるべきではないし、なりすましが疑われるアカウントは批判的に取り扱う必要があるということだ。「表現の自由戦士」が好む対話系リアルイベント(ちょうどこの記事を書いた日には第三回これフェミが開催されていたらしい)はなりすましを排除した言論空間としてやっているのだとの反論があるかもしれないが、誰が言ったかを軽視するならなりすましを嫌うような層はイベントに登壇もしないし金を払わないのが当然のなりゆきだろう。誰でもいいならわざわざ登壇者として生身の人間を指定する必要はなく、椅子の上に置いた人形に自分の考えた愚かな(あるいは最強の)フェミニストの言葉でも語らせて自分で批判していればよいのだ。

『ルックバック』を”Look Back”する(1)「的外れな怒り」に注目して:作品は京都アニメーション追悼なのか?

  話題になっている、藤本タツキの『ルックバック』を読みました。

 思ったことはいろいろあります。作品についても、また作品を巡る言説についても。

 論争を呼んでいる作品であり、先に所感や社会論的なことを述べてしまうとそこから後は読んでもらえない可能性もあるので、記事を何回かに分けたうえで、まずは私がこの作品のテーマをどのように捉えているかということを自分なりに整理していきたいと思います。

※8月2日のアプリ配信版『ルックバック』セリフ差し替えより前に書かれた記事です

※後で思いついたことを追記したり、一部を削除したりするかもしれません

 

私のルックバック評の「背景」

 読んだのはある程度話題になってからでした。

 少年ジャンプ+アプリで該当作を読み始める前にTwitterで、最初のコマの"Don't"と最後のコマの" In Anger"について紹介するツイートが流れてきたのを見ています。Oasisの楽曲や2017年のマンチェスターでの爆発テロについては知らなかったのでWikipediaで確認し、「振り返るな、怒りを捨てて未来を見ろ」というようなメッセージがあるのかなと思いました。そうしたポジティビズムは正直あまり好きではないのですが、藤本作品の、バンド・デシネにも似た画面造形や色遣い、余剰を含んだ台詞回し、曖昧な表情といった要素や、ストーリー展開のエグさは好きだったので、なにがしかを期待して読みはじめました(なお、『チェンソーマン』は19話だか21話だかのあたりまでしか読めていませんが、マキマさんが最後どうなるのかということはTLに流れてくる感想やファンアートで薄々察しています。『ファイアパンチ』については全く知りませんが、『ルックバック』にも『チェンソーマン』のように藤本タツキの強烈な個性によるエグい展開があるのだろうなと予想していました)。

 その時点ではまだ、京都アニメーション放火殺人事件と『ルックバック』を結びつけるツイートには接していなかったので、マンチェスターでの爆発事件をベースに、銃乱射事件(『チェンソーマン』の銃の悪魔からの連想です)が出てくるのかなと思っていました。

 

『ルックバック』は追悼・鎮魂を主眼とした作品か?

 音楽や漫画などについて素人で、藤本作品もほとんど知らない私は、Twitterで言われていたような様々な「元ネタ」については頓着せずというか、考察できずに読み進めました(本稿もそうした「元ネタ」方面の”Look Back”はあまりやりません)。そして犯人の「ほらア!! ちげーよ!! 俺のだろ!?」「元々オレのをパクったんだっただろ⁉」というセリフを見て、京都アニメーションの事件を連想し、主要な着想源なんだなと思いました(そのページより前の、ニュース番組の場面でどう思ったのかは覚えていません)。

 そして作品を読み終わり、テーマとタイトルの意味に思いをはせました。「このタイトルにはいろんな読み方ができる」というようなツイートを、作品を読む前と後、どの時点で見かけたかは定かではありませんが、確かに重層的な作品だなと思いました。

 多くの人が『ルックバック』は追悼のための作品だ、鎮魂の詩だというように言っています。そうした側面もあるかもしれませんが、私は『ルックバック』は京都アニメーションでの事件からも着想を得たであろうと推測されるものではあっても(この点については次回記事で)、追悼を主眼とした作品ではないと考えます。

 サバイバーズ・ギルト(Survivors' Guilt)という言葉をご存知でしょうか? 事件や事故、災害で身近な人を亡くした人が、なぜあの人が死んで自分が生き残ったのか、自分が死ぬべきだったのではないか、自分はあの人が死なないために何かができたのではないか、と罪の意識に苛まれることを言います。『ルックバック』は苦しみ(不登校だったり、サバイバーズ・ギルトだったり)のうちにある人が、いかにして前を向くかということ──そのとき変えられない過去だったり創作だったりの存在は絶望にも希望にもなりうるが、変えられない過去や創作の存在が絶望であると短絡的に片付けてしまう前に物事(たとえば、創作に救われた過去であるとか)をしっかり見ろ(逆に、希望に見えたものがよく見れば絶望である可能性もあるにせよ)──ということをテーマにしていると、私は推測します。

 鎮魂という行為自体が生き残った人を慰めるための儀礼であるというような話については今はおきます。私が言いたいのは、物語自体が、おそらくは死者の苦しみよりも生き残った者の苦しみの救済を中心として描いているということです。

→「サバイバーズ・ギルトという言葉で表すのは適切だったのか?」というご指摘に関する追記(脚注)*1

的外れな怒りについて

 作品全体を通じての重要な要素としてあり、最後の"In Anger"で明文化される怒りは、ただの怒りではなく、理不尽な怒りです。誤った仕方で発生し、こじれていく的外れな怒りです。*2

 

①通り魔の、「絵画から罵倒されている」「パクられた」という被害妄想による怒り

 

②藤野の、「京本を漫画の道に誘い、死という間違った運命に導いてしまった」過去の自分自身に対する「私が京本を殺したのだ」という怒り、悲しみ(サバイバーズギルトと、論理飛躍による自責)

 

③藤野の、京本に対する嫉妬=潜在的な憎悪=怒り。怒りをもって京本の背中を見つめること(藤野は京本が自分の背中を追っているとうそぶいていたが、京本の才能をうらやみ、京本が藤野の元を去って自立することを押さえつけようとさえした)

 

(なおそうした中で、京本の怒りは読み取れません。怒りをもっていたかどうかすら定かではありません。死ぬ瞬間の怨嗟やモノローグがあるわけでもない。藤野が家に卒業証書を渡しに来たとき、「ひきこもり世界選手権が開催され、出るな出てこいと外野からいろいろいわれているうちに部屋の中で朽ちて骨となってしまう」という見ようによっては稚拙で酷い(でも時と場合によっては勢いにちょっと笑ってしまうような)四コマ漫画を誤って部屋に滑り込ませてしまった藤野を(学級新聞の連載で知っていた)京本は「藤野先生」と呼び、感極まった様子で半纏の背中へのサインすら求めます。この時点で少なくとも表面上は怒りがないように見えますし、後に更なる技術向上を目指す京本の自立をあからさまに否定し才能を搾取しようとする藤野に対してすら、目立った怒りを見せることはありません。

 そして死んだ後も、殺人犯や藤野を呪い殺そうと化けて出てくるわけではないし(むしろif世界の藤野が京本からなんだかよくわからない幽霊扱いされている)、藤野も京本の怒りに思いをはせることはありません。

 これを被害者の苦しみ・怒りの無視や不可視化と捉えるか、死者の苦しみ・怒りを代弁しない誠実さと捉えるかは両論があるかと思いますが、私は現時点では後者ととります。

 私が見落としているだけで、あるいは描かれなかっただけで、京本も的外れな怒りに支配されたときがあったのかもしれませんが。)

 

 的外れな怒りの分析としては④もあるのですが、これは次回の記事に回します。

 

 さて、『ルックバック』では外界との接触を拒み閉ざされたドアの下から滑り込む紙片(四コマ漫画やその切れ端)を介して超時空的なメッセージの交換がなされ、藤野が持つ的外れな怒り(絶望)の、目の前にあって見えていなかったものの直視(希望)への組み換えが起こっていきます。

 ドアで隔てられたif世界(と仮にそう呼びます。それは藤野が見た白昼夢だったのかもしれないし、藤野の願望=祈り=思考の道筋そのものの漫画的な表現かもしれませんね)では漫画の道を諦めた藤野が身につけた空手で京本の命を救い、京本が描いた「京本を凶刃から颯爽と助けた藤野の背中に斧が刺さっている」四コマ漫画が風に飛ばされ、作中の現実世界(と仮にそう呼びます)で廊下に閉じこもって自責している漫画家・藤野へと滑っていきます。その四コマ漫画の「背中を見て」というメッセージを見て、藤野は部屋の中のたくさんの漫画、そして壁に掛けられた、自身のサインが描かれた京本の半纏の背中を見ます。それは京本にとっての憧れ(=希望)であり続けた藤野自身の姿であり、藤野にとっても京本にとっても楽しかった、漫画を描く時間を共有したという事実の象徴です。そこではもはや「京本を漫画の道に引き入れた過去の自分が事件を招いたのだと論理飛躍して己を責める視線」や「嫉妬=潜在的な怒りをもって京本の背中をにらみつける視線」は薄れ、藤野は自らが漫画を描くということが自他にとっての絶望ではなく希望なのだと自覚して前を向く=過去を見るようになるのです。藤野が漫画家であることを否定することは、究極的には京本が生きていたこと、楽しかった時間すらも否定することです。

 的外れな怒り(②と③)の解毒は、"Look Back In Anger"(自らの過去や他人の背中に対して怒りを向けること)が"Look Back"(自他の背中=過去を見ること)によって"Don't Look Back In Anger"(怒りをもって自分の過去を見るな/怒りをもって背中を見るな)と変化していくプロセスです。

 そこでいう背中は、京本の背中であるだけではなく、京本が追いかけていた藤野の背中でもあります。自分の背中を見ることは実際、難しいです。自分の背中を見るためには鏡が複数枚必要になるわけですが、それはきっと、具体的なレベルでは相方であったり創作物(『シャークキック』)だったりするのでしょう。象徴としては半纏になっている。

 

(藤野は自身が京本を漫画の道に引きずり込んだことで事件が起きたという想念に囚われていますが、「漫画との関わりが死を招いた、だから漫画との関わりを全否定しなきゃ」という想いが的外れな飛躍であるだけでなく、そもそも京本は藤野と出会う前から漫画を描く人間であり、藤野が京本を漫画の世界に引き入れたわけでもないし、藤野との出会いがなかろうが京本は漫画を描いていただろうという意味でも誤っている、ということを、すのぶ @snobocracy さんのツイート https://twitter.com/snobocracy/status/1416928386434277376?s=19 をはじめとしたいくつかのツイートから思いました。本稿はネット上のいろいろな感想・考察に助けられてます)

 

背中に刺さった斧を見ろ

 おそらく、「怒りを込めて振り返るな」といってもそれは、いろんな痛みを、そして怒りをすっからかんに忘れてしまうということではありません。藤野の背中と京本の背中が重なるとき、京本の半纏に書かれた「藤野歩」の名前は藤野の背中に刺さった斧=痛み=怒りと重なり合うものでもあります(斧の形が「碇」に似ているのは偶然でしょうか?)。 凶器に関する追記*3

 これは想像ですが、藤野は藤野の京本に対するコンプレックス=潜在的な怒りの存在を心のどこかで呪っていたのではないでしょうか(怒りそのものに対する怒り)。そして京本の死に際し、サバイバーズギルトもあって、後悔が自責の念として噴出する。

 コンプレックスは、筆を折るきっかけにもなれば、紙一重で漫画を描く原動力にもなります(サインを求められたからといって京本へのコンプレックスが簡単に消えたわけではないでしょう。でなければ京本の自立はすんなりと受け入れられたはずです)。絵描きとして努力することから逃げることとなった根底にある嫉妬心=的外れな怒りは、藤野自身によってよりましな(自己を叱咤して修練へと駆り立てる、的外れではない)怒りへと常にすでに組み替えられていた側面もあるわけです。京本とタッグを組んで以降の藤野が漫画を描くということの根底には(悪い意味だけでなくいい意味でも。後者の認識は殺人事件に際し一度は抑圧されてしまう)怒りがずっとあり、だからこそ藤野は殺人事件の起点に自らを置くという論理飛躍をしたのだとしたら? 京本が「背中を見て」と書くのはなぜか。藤野が生きながらにして死んでいるから、斧が背中に刺さっていても痛みの意味に気づかない(ふりをしている)ということではないでしょうか。その内なる怒りこそがかつての楽しかった時間を形作り、漫画作品を生み出してきたという事実の視認によってしか、藤野は前を向くことができません。そしてその転回は成功しました。

 的外れな怒りと訣別しつつ、内なる怒り(そして漫画を描くということ)を自分の重荷として引き受けることで藤野は漫画家として立ち直ります。それは決して楽な道ではなく、あくまで痛みをともなうものです。藤野が自らの漫画家としての人生を取り戻すための希望は、京本を救う空想から京本がいない現実に引き戻す/立ち戻る痛みでもあるということなのではないでしょうか(モグラが日の光に当たると死ぬというのは俗説らしいですが)。そして相方の理不尽な死がなかったとしても、創作物を生み出す作業は(楽しさもあるが)ダルくて辛く、苛立ちを抱え続けることです。その自覚もまた、斧の刺さった自らの姿を見るということなのかもしれません。

 物語の最後に藤野はサイン入り半纏を着ることなく、机に向かいます。京本の生きた証であり、藤野の生きた証でもある半纏は、着る(=また背中が見えなくなる)ものとしてではなく、そこにずっとあって見られるものとして残るのです。これは二人が生きていようと死んでいようとお互いの背中を見合って前に進んでいくことを表しているのかもしれません。またいつか藤野が挫折したとき、部屋に掲げられた半纏が藤野を立ち直らせるのかなと想像してしまいます。前を向いて進むということは過去を切り捨てることではなく直視することであり、部屋から出ることと部屋に戻る(過去を振り返る)ことは同じなのです。

 

大地を蹴って:死者たちの舞踏と足枷

 『ルックバック』は喪失と再起、もっと言ってしまえば死と再生の物語です。藤野が描いて京本も大切に保管していた生まれ変わりの四コマ漫画のように、二人とも様々なレベルにおいて死者であったり生者であったりします。大森靖子の『流星ヘブン』ではないですが、人間は生きていく中で──互いに背中を追いつ追われつしながら──仮想的な死と再生を繰り返していく存在です。

 藤野は京本の出現で絵描きとしての挫折を味わい(一度は悔しさをバネに奮起するものの、周囲の無理解もあって)モチベーションを失い、京本からの認知を受けたことで漫画家を目指す存在として──セミやミノムシが羽化するように──生まれ変わります。また藤野は京本の死によって休載に至りますが、京本が藤野の自分勝手な願いを「蹴って」美大に行った段階では藤野は漫画を辞めませんでした。その結果生まれた作品が『シャークキック』です。if世界で京本と会わずに卒業証書を置いて帰った藤野もまた、幽霊である、つまりすでに死んでいる存在です。しかしその藤野は京本を助けた時点で京本なしで漫画を再び描き始めていました。もはや幽霊ではない(足がある)、だから周囲に流されて始めた空手のキック技で誰かを助けることができるのです。漫画を描いたから助けられなかったんじゃない。漫画を描くことこそが、藤野のなりたかった、京本を助けられる自分と不可分なのです。現実世界で京本が、廊下の床を蹴って走り出す=藤野の漫画を肯定することで漫画を描く藤野を救い出したように。

 京本が死によってその歩みを止める(足を奪われる)ことで、藤野もまた休載するまでに追い込まれます。藤野は京本が美大に行った後もバリバリ漫画を描き続けましたが、それは京本が自分の足で進み続けていたからです。「漫画の賞に応募するのだ」と見栄を張ることによって確実なものとなった足枷で進行していた二人三脚でしたが、京本の足が奪われることは藤野からも足枷ごと足を奪う呪いだったのでしょう。京本が美大に行き、商業誌で一人で連載を開始してからも、藤野は藤野キョウという合作用のペンネームを使い続けたわけです。それは半纏における二人の重なり合いと同じものではありつつも、藤野を京本への依存状態に留めてしまうものでもあり、足枷が消えることで藤野は自らの足で踏み出せず過去に囚われるようになるのです。京本という存在の忘却に向かうのではなく、二人でいることを回復するために、二人三脚の片割れとしては死んでしまった自分自身(の「歩み」)を取り戻すために、「藤野歩」とサインされた半纏の背中をもう一度確認する必要があったのです。二人で一つという状態を否定することで、二人がもう一度結ばれる(というよりは、そこにある紐帯が生きたものになる)という逆説がそこにはあります。

(if世界で京本がアシスタントになる、ということが、藤野にアシ=足がつく、幽霊ではなくなるという語呂合わせなのかは分かりませんが、京本と対面した段階ですでに漫画を再開しているのでたぶん違うのでしょうか。あ、カラテキックで足が折れちゃったからある意味足が必要なのか)

 

 以上が私なりの『ルックバック』の解釈です。『ルックバック』は当初私が予想していたような、単に起こってしまった出来事(悲惨な事件)について「加害者に対する怒りを捨てろ」とポジティブ志向のお説教をする類の作品ではないと思いました。私は『ルックバック』を読み終えたとき、主人公が怒りに我を忘れてとんでもないことをしでかすわけでもないのに(加害者への凄惨な復讐の要素はありません。空手でぶっ飛ばす場面はあっさりしたものですし、京本の四コマ漫画で戯画化されてすらいます)「怒りを含んだまなざしで振り返るな」とはどういうメッセージだ? と思いましたが(作品を読む前、もしかすると手垢にまみれた「正義の暴走」類型が出てくるのか? いやまさかな…と思っていたので拍子抜けした)、鎮魂ではなくサバイバーズギルトの物語だという解釈が浮かんだことで、自分なりにテーマや各要素の意味付けができたと思っています。私的にはこれでいい線行ってるんじゃないかなと自負していますが、もちろん、私の解釈が絶対ということはないでしょう。見かけ上整合的な理解をするために私が切り捨ててしまっている要素があるというご指摘などがあればぜひ感想、ご意見をいただけるようお願いします。

 

蛇足①:『ルックバック』における永劫回帰ルサンチマン

 最後に蛇足になるかもしれませんが、私の『ルックバック』解釈には多分にニーチェ哲学の影響があります(大森靖子への言及も含めて)。これは全く私の個人的なバックグラウンドによるもので、『ルックバック』にはニーチェのニの字も出てきませんし、藤本タツキニーチェから何かアイデアを得ているというような話を聴いたことがあるわけでもないのですが、何かの参考になるならということで『ツァラトゥストラはこう語った』を読むことを皆さんにおすすめしておきます。私が本稿で詳述した「的外れな怒り/的外れなものでもそうでないものでもありうる怒り」はルサンチマンとその根源にある力への意志と重なり(力への意志ルサンチマンと対立する概念ではなく、力への意志の悪用された形がルサンチマンです)、過去に対する解釈変更と「前を向くこと=過去を直視すること」は永劫回帰の認識、オタク性の承認は自己超克して大人から子供になるというイメージに重なるところがあるかと思います(ただ、俗な理解である「末人のルサンチマン=暴力、超人の反ルサンチマン=非暴力=創作による昇華」との図式は、誤りであると私は思います。ニーチェは暴力と蹂躙、実力行使こそを肯定する思想家だからです。といってもニーチェが創作活動そのものを否定したわけでもありません。ニーチェの作品には詩もありますし、『ツァラトゥストラ』自体が一種の叙事詩です。ニーチェ交響曲などの作曲もしているので、興味があれば調べてみてください)。過去に対する解釈を変えて怒りを手放すことは安易なポジティビズムの礼賛に繋がるので取り扱い注意ではあるのですけれど。

 ツァラトゥストラは弟子に、師である自分を打ち倒してゆくことを要求しました。不登校だった京本を軟弱者と決めつけた藤野が、京本の自立と成長を恐れ拒んだのは、強者でありたいと思いつつもツァラトゥストラになりきれなかったワナビーとしての必然であり、そこからの自己超克が求められていたのではないでしょうか。

 

蛇足②アキレスは亀に追いつけるか:追いつかずに追い越すこと

 アキレスと亀の問題も相対性理論も全く素人なのであくまでイメージとしてですが、アキレスが亀に追いつく(アキレスが亀の背中を見られなくなる)ことは時間の問題です。光と同じ速度でいると光を見失ってしまうことにも通じます。癒しということについてよく「時が解決する」という言い方がなされますが、ただ前に進むこと、直線的に進む時間の中に救済はないというか、円環的な時間の中でこそ救われるものもあるのではないかということを私は『ルックバック』から読み取りました(過去を忘れ前に進む物語として『ルックバック』を非難する論への異論)。

*1:サバイバーズ・ギルトという語は本来、それを抱える本人も被害に遭っているという意味の生き残りであるがゆえに生じる罪悪感を指すものであり、悲惨な事件に自身も巻き込まれたわけではない人間の「身近な人を亡くした痛みからくる後悔」を単に「生者の世界に残された」という意味で「生き残った」からサバイバーズ・ギルトと呼ぶというのは「被害を受けつつ生き残った人との重要な差異を無化してしまう点で問題なのではないか」(枠組みとしてはグリーフgriefのような概念の方がよいのではないか)、「事件を見聞きしただけの人が安全・特権的立場から何か罪悪感を感じる・(気軽に語る)、ということの問題性が私は気になる」ということをご指摘いただきました。

 確かに作中の藤野は事件に直接巻き込まれておらず、本来ならサバイバーではありません。しかし、第一に本作が生き残ってしまったことの罪悪感、自責感情を巡っての物語であり、グリーフ概念にも罪悪感・自責感情は含まれるとは思いますが、やはりその中心となるニュアンスは離別における深い悲しみ、悲嘆であり、この記事で扱いたいものを表現する言葉として、サバイバーズ・ギルトという言葉をあえて選びました。「被害を受けつつ生き残ってしまった人との重要な差異」を表現できていないことは私の未熟さです。

 第二に、これは元々本稿で取り扱う予定だったのが次回記事に回すこととなったテーマなのですが、まさにご指摘の「事件を見聞きしただけの人が安全・特権的立場から何か罪悪感を感じる・(気軽に語る)」という言葉で言い表されているような、サバイバーではない人々がメディアでニュースを知り、事件について語り合うことで生じる疑似的なサバイバーズ・ギルト空間がこの世界ではいつからか存在していて、そのことが大きな問題であると認識しています。

*2:正当か理不尽か、的外れかどうかは後付けの論理にすぎないというご指摘をいただきました。私自身そう思いつつも、分かりやすさのためにあえて使用しています。

*3:作中現実のニュースでは「斧のようなもの/切りつける」、襲撃場面では斧よりはツルハシに近いがツルハシでもない先端の鋭利な工具、京本の四コマ漫画では「斬ってやる/背中に刺さる」見た目は完全にツルハシのもの(死神の鎌が両頭になっている?)と、凶器が何であるのかは曖昧です。

 そもそも犯人は凶器をどこで手に入れたのか。if世界に突然出てくる俯瞰目線的なナレーションでは実習棟内で拾ったとされ、助けた藤野は「武器を持った男が入っていくのを見かけた」(ランニングは校外?)と、語り手が信頼できないものになっています。if世界を藤野の願望やニュースの知識が混ざりあったものとして見るならそのズレは説明できますが、凶器の形状がかなり具体的なんですよね。分かりやすい斧ではない。ニュース速報では不十分な情報から斧のようなものとしてしまったが実際には違っており、後に訂正されて藤野がそれを知っていた…という想像もできますが、そうかどうかは描かれていない。if世界が藤野の願望とかそういうものの表現だとしたら、工具の具体性とか作中現実の新聞記事になかった「パクったんだっただろ!?」というセリフは不可解なものと私には映ります。

 また、怒り=碇説について、anchorとangerの類似性を指摘するご意見もいただきました。ミ @38kikko6 さんの「ルックバック何回も読んでるんだけど、don't look back in angerと振り返ると半纏のハンガーがある(look back on a hanger )というクソダジャレに気づいてしまった」というツイートも踏まえると、二人が時間を費やしたものがアニメでもゲームでもなく「マンガ」であることも語呂合わせの一種なのかもしれませんね。